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パチンコ転職知識
パチンコの歴史① 誕生から役物の登場まで
最終更新日:本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第1回は「誕生から役物の登場まで」です。
目次
パチンコの起源は?
パチンコ機の起源は、西洋のマシンである「コリントゲーム」や「ウォールマシン」にさかのぼります。
コリントゲームはピンボールの原型で、ウォールマシンは壁に取り付けて遊ぶもので、「パチンコ」はこれらのいいとこ取りから生まれたと言われています。
1900年にウォールマシンがヨーロッパで誕生し、1920年にコリントゲームなどがアメリカから日本に輸入されました。
日本では、1922年には既に「パチパチ」「パッチン」と呼ばれたパチンコの原型が関西で露天営業を始め、1924年には宝塚新温泉にヨーロッパのウォールマシンが設置されました。
1930年には名古屋で自動遊技機の営業許可が出され、名古屋が「パチンコ発祥の地」となりました。
1931年からは全国的に「一銭パチンコ」が普及し、投入口に一銭銅貨を入れて玉を出し、入賞すると一銭や二銭の現金が得られる仕組みで、大人たちも熱狂しました。
1932年頃からは「パチンコ」という名称が定着し、関西と関東で異なる呼び名が合わさって「パチンコ」と呼ばれるようになりました。
ホールの原点と規制の始まり
1932年、パチンコが全国的なブームになり、一銭パチンコには規制が導入されました。
一銭銅貨に「皇室の御紋」が入っていたことから、これを遊技に使用することが禁止され、全国的に一銭パチンコは姿を消していきました。
しかし、この規制に終わりがありませんでした。
1934年、同じ仕組みのメダルを使用する「メダル式パチンコ」が認可を取得し、1935年には全国に広まり、パチンコは復活を遂げました。
遊技場では、人気獲得のために客が獲得したメダルをお菓子と交換する「景品交換」が始まりました。
1936年ごろ、名古屋の藤井文一がメダルではなく直接玉を入れる「鋼球式(玉式)」を考案し、ブームは拡大を続けました。
しかし、1937年に日中戦争が勃発し、戦時特別措置令で新規営業が禁止され、1940年には遊技機製造禁止令が出されました。
1941年に太平洋戦争が勃発し、翌1942年には戦時対策により、企業整備令とともにパチンコは全面禁止になりました。
この時期、パチンコは「非国民的遊技」とされ、戦前のパチンコ文化は終焉を迎えました。
戦後パチンコ産業と正村ゲージ
終戦後の1945年、進駐軍向けの遊技場が再開され、メダル一個が五銭で遊技できる状況が生まれました。
しかし、本格的な復興は遠く、供給過多となった戦争の遺物である7/16インチのベアリング球がパチンコの遊技球として流用されました。
1946年、正村竹一氏が名古屋市西区で20台の小さなパチンコ店を開店し、大繁盛となりました。
正村竹一氏はもともとガラス商を営んでおり、パチンコとは無縁でしたが、戦前に鋼球式を製品化した藤井文一氏によってパチンコに興味を持ちました。
正村氏の店は大成功を収め、増台の必要性から自ら遊技機の製造を始めました。
彼は通常の釘の配置が単調なゲーム性を生むと考え、独自のゲージである「正村ゲージ」を開発し、1948年に登場させました。
さらに、従兄弟の長崎一男氏が「オール物」を開発し、同じく正村ゲージは人気爆発となりました。
正村竹一氏は、現在の遊技機の基礎を築いたことから「パチンコの神様」と呼ばれています。
パチンコの第1次黄金時代
1948年、競馬や競輪が合法化される中、パチンコは「風俗営業等取締法」によって正式に「遊技」と位置づけられました。
同法に基づく都道府県の許可営業となり、貸玉料金も1個1円に統一されました。
1949年には一部が改正され、貸玉料金は1個2円に、景品上限額は100円までと定められました。
これを契機に、パチンコは過去にない大ブームを迎えました。
1950年には「オール20」と呼ばれる正村ゲージの機械が登場し、ホール数は8,400店舗に倍増しました。
1951年には警視庁が「パチンコの遊び方」を発表し、18歳未満のパチンコが禁止されつつも、ホール数は約12,000店に増加し、全国遊技業組合連合会(全遊連)が発足しました。
1952年に登場した「オール20連発式」は大ヒットし、ホール数は一気に42,100店舗まで増加。
翌1953年には「循環式1号機」と呼ばれる「上皿付き高速連射機」が登場し、ピーク時には45,317店舗に達し、まさに第1次黄金時代が到来しました。
しかし、この黄金時代は長続きせず、後に次なる時代へと移り変わることとなります。
連発式パチンコの規制
1952年からパチンコ産業は第1次黄金時代を迎え、ホール数はピークで45,000店舗に達しました。
しかし、このブームは連発式パチンコの規制により急速に終焉を迎えました。
1954年に風俗営業取締法が改正され、都道府県の公安委員会が連発式パチンコを禁止する通達を行いました。
その後、1955年3月には「連発式パチンコ」が、同年10月には「オール20」も禁止されることとなりました。
規制の背後には射幸性があるとされ、当時の貸玉料金が1個2円、景品上限額が100円であったため、「オール20」は一回の払い出しで最大40円となりました。
この金額が高い射幸性を生んでいたため、規制が行われました。
特に「連発式」は左手で穴に1個1個を入れてからハンドルを弾いて打ち出す方式から、一度に一定量の玉を込めても、打ち出すごとに一発一発が補填される方式に進化していました。
この進化は「デンデン虫」と呼ばれる機械のヒットをきっかけにさらに改良が加えられ、左手で玉を穴に入れなくても多くの玉を一度に置くことができる「上皿付き」が登場し、賞球の払い出しも上皿に出てくる「循環式」も登場しました。
循環式の1号機と呼ばれる「上皿付き高速連射機」は一分間に160~180発もの発射が可能で、非常に高い射幸性を持っていました。
この高い射幸性が、「モーターパチンコ」が問題視されるきっかけとなり、モーターパチンコだけでなく連発式自体も規制される結果となりました。
連発式の一斉規制は、全国警察本部長会議で「単発式を除くぱちんこ機械は遊技者の射幸性を著しくそそるおそれがあり、遊技機として不適切」との採択に繋がりました。
この規制が実施される一方で、すでにパチンコによる依存症や賭博による生活破綻が問題となっていました。
投資金額が高く、景品を取っても次に打つ資金がなくなるため、店舗の外で景品を買い取っていた「バイニン」も存在していました。
こういった状況を受けて、1955年に各公安委員会が「連発式パチンコ」が、10月には「オール20」も禁止されることとなり、第1期黄金時代は終焉を迎えました。
連発式パチンコの規制内容
1955年3月以降、行政は各公安委員会が認めるぱちんこ機の基準を設け、「一式」「二式」「三式」の3つのタイプのみが許可されることとなりました。
それぞれの内容は以下の通りです。
1.一式(手動式):
・上皿がなく、「手で一個ずつ玉を投入して発射するもの」。
・発射に時間がかかり、射幸性が抑えられるメリットがありますが、遊技者の労力が大きい。
2.二式(上皿付き・循環式):
・「上皿付き・循環式」が認められる。
・「発射された玉がアウトかセーフかを確認した後でないと次の玉を発射できない仕組みも有するもの」。
3.三式(上皿付き・循環式):
・「上皿付き・循環式」が認められる。
・「一分間に30発以内の遊技球しか発射することができないもの」。
これらの規制は、射幸性を抑えるための条件を設けており、特に「三式」では一分間に発射できる遊技球の数が制限されています。
この規制により、ホールの売り上げは大幅に減少し、ホール数も急激に減少しました。
最盛期の45,000店舗から1955年には12,300店舗に激減し、その後も転廃業が相次ぎ、1957年には8,400店舗まで減少。
同時に多くのパチンコメーカーも倒産や廃業に追い込まれ、これが「パチンコ冬の時代」の到来を象徴しています。
パチンコを復活させる秀逸アイデア「役物」の登場
パチンコメーカーは冷え込む業界に打って出て、1957年に「西陣」が発明・開発した「役物」が業界に大きな変革をもたらしました。
これにより、冷え切ったパチンコ産業に一筋の光が差し込むこととなりました。
1.ジンミットとセンター役物:
・1957年に登場した「ジンミット」は、パチンコ台の盤面中央部分に初めて「役物」を搭載した機種でした。
・「センター役物」と呼ばれる役物は、入賞した玉が内部を通って他の入賞口上部に導かれ、入賞を容易にする仕組みを持っていました。
・盤面の最も目立つ場所に位置する役物であり、「とにかく役物に入れば…」というゲーム性が加わり、大きな評判を呼び起こしました。
・「ジンミット」の機種名は、「神武景気」に沸いていた当時の好景気にあやかり、「神武景気をミットで受け止めたい」という意味が込められていました。
2.コミックゲート:
・同じ年、「平和」が「コミックゲート」という機種を発売。
これは「センター役物」に風車を搭載し、動く仕組みを追加した改良版でした。
・各社から続々と「役物搭載機種」が登場し、パチンコ人気は再び高まりました。
この「役物」の登場により、ホール件数は1957年の8,400店舗が底を打ち、翌1958年からは増加に転じ、これが後の「第2次黄金時代」への道を開くことになりました。
パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第2回は「チューリップと新遊技機」をお伝えします。