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パチンコ転職知識

パチンコの歴史③ 電動式遊技機&フィーバー機

本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第3回は「電動式遊技機&フィーバー機」です。

目次

高度経済成長期へ

1959年に風俗営業取締法が改正され、「ぱちんこ」は風俗営業法7号営業として位置づけられ、1964年には風俗営業取締法が再び一部改正されました。

この改正で、「ぱちんこ」の許可期間が3ヶ月に延長され、遊技料金や景品単価にも変更がありました。

これにより、パチンコは「大人の遊び」として定着しました。

1966年には遊技機基準の緩和があり、36種類の役物使用が正式に認可され、全国的にパチンコが普及し、「第2次黄金時代」が訪れました。

この時期は高度経済成長期に位置しており、社会全体が発展していく中で、パチンコも進化を遂げていきました。

まず、遊技機の外観が大きく変化しました。

1964年に登場した「ユニパック」は、木製の遊技台に革新をもたらし、プラスチックでできた台枠と本体を分離可能にしました。

この進化は、「救世号」などを経て、「セル替え」の可能となり、今なお続く交換システムの基盤を築きました。

外観だけでなく、射幸性の向上も重要な変化でした。

1969年には遊技機の新基準が定められ、手動式での発射速度や賞品球の出玉に制限が設けられました。

この基準により、「上皿搭載」が標準となり、遊技性が向上。

また、賞球の制約も緩和され、一分間に100発の発射が可能となり、初級者から上級者まで広く楽しめるようになりました。

高度経済成長期の真っただ中、パチンコの射幸性も世相に合わせて上昇。

景品上限額や遊技料金が引き上げられ、1973年には景品上限額が1,000円まで拡大されました。

更に革命的な変化が訪れ、電動式遊技機が登場しました。


電動式遊技機の誕生と普及

1972年、警察庁が条件つきながらも「一分間に100発、賞球15個」の範囲内で電動式遊技機を認可しました。

これは以前登場した「モーターパチンコ」が一分間に200発もの発射を行うなどの理由から、新しい電動式遊技機が開発される契機となりました。

「モーターパチンコ」はスイッチを入れると自動的に玉が発射され、遊技者の介入が難しいものでした。

しかし、新たに登場した電動式遊技機は、ハンドルを回すことで発射され、その角度によって打ち出しストロークも変化する構造でした。

この設計により、手打ち台と同様に遊技者が技術介入できる余地が残りました。

現在ではハンドル固定が一般的ですが、この時の経緯から認可されたものと言えます。

当初は上級者や熟練者から電動式遊技機への拒否反応があり、手打ちと電動の双方が併設され、一定の区別がなされていました。

過渡期には、手打ちと電動ハンドルが付いた遊技機も存在しました。

しかし、電動式の利便性や初心者向けの使いやすさから、次第に電動式遊技機が普及していきました。


インベーダーゲームの襲来

1975年、アースマラソンで有名な「間寛平」の歌う「ひらけ!チューリップ」が100万枚を超える大ヒットとなり、これはまさにパチンコが第2期黄金時代を極めた出来事でした。

この成功は、パチンコが社会に定着していたことを示す好例と言えました。

同時期には、ボウリングブームが終焉し、郊外に次々とパチンコ店が出店。

この年、ホールの軒数は10,000店舗を超え、パチンコファンの人口も3,000万人に達し、ブームの頂点を迎えていました。

しかし、この黄金時代に重大な転機が訪れました。 1978年、タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが空前の大ブームを巻き起こすことになります。


インベーダーの影響とフィーバーの台頭

パチンコの第2次黄金時代は1975年に始まり、ホールの軒数が10,000店舗を超え、パチンコファンの人口も増加し、市場規模も拡大していました。

1977年には景品の最高限度額が引き上げられ、パチンコメーカーも画期的な新作を次々と発表していました。

テレビを搭載した「テレパチマン」や「逆転パチンコ」など、斬新なアイデアが次々と登場し、業界は繁栄の一途をたどっていました。

しかし、1978年にはパチンコ業界にとって大きな打撃が訪れます。

タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが大ヒット。

インベーダーブームが巻き起こり、ゲームセンターや喫茶店に置かれ、人々の間で熱狂的な支持を受けました。

このブームの影響で、パチンコ業界は1979年にホールの軒数が減少し、1万軒を割り込む事態となりました。

パチンコファンが新たなエンターテインメントであるインベーダーゲームに流れ、従来の物理的な動きだけでは魅力が足りなくなったのが原因でした。

パチンコメーカーもこの状況に対応すべく、電気的な動きや音を模索し、新しいゲーム性を取り入れる努力を重ねました。

しかし、パチンコの人気はなかなか戻らず、窮地に立たされた業界にとって救世主となったのが「フィーバー」の登場でした。


フィーバー機の誕生と社会への影響

1977年に登場した三共「ブレンド赤坂」は、中央のドラムを搭載し、スタートチャッカーに入るとドラムが回転、ストップボタンで組み合わせによりチューリップが開放されるゲーム性を持っていました。

しかし、この台は目押しによる狙い撃ちが可能で、ホールの収益減少につながりました。

ここから、「故障時のように玉が出っぱなしになる」新しい台のアイデアが生まれ、これが「フィーバー」の原型となりました。

1980年12月21日、新潟県のエース電研直営店が一気に三共「フィーバー」を123台も設置。

これによりホールに多額の収益がもたらされ、全国的に「フィーバー」への注文が殺到し、大ヒット機種となりました。

しかし、その過激なゲーム性から社会問題となり、様々な事件が発生しました。

茨城県での大当たりでの死亡事件や金銭トラブルなどが報告され、警察庁は1981年に規制を通達しました。

1982年には全遊協が規制に従い、「フィーバー機」の新要件機への切り替えと、ホールの「フィーバー」設置台数を規制する自主規制を実施。

しかし、問題は改善されず、1984年には再び警察庁が「フィーバー」機に対する追加の規制を通達。

大入賞口の開放時間や入賞数の制限が設けられ、パチンコ業界は再び厳しい状況に直面しました。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第4回は「ハネモノ&権利モノ誕生」をお伝えします。

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