歴史 | パチンコ転職ならチャンスアップ https://chance-up.jp チャンスアップ-CHANCE UP | パチンコメーカー・ホール・メディアなどP業界の転職・求人ならお任せください!若い女性の専属コーディネーターが土日祝も受付中!あなたのキャリアアップを全力で応援します! Wed, 11 Sep 2024 01:34:13 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3 パチンコの歴史⑩ パチスロAT機の登場 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A9-%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%ADat%E6%A9%9F%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A9-%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%ADat%E6%A9%9F%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4/#respond Tue, 18 Jun 2024 01:32:19 +0000 https://chance-up.jp/?p=718 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第10回は「パチスロAT機の登場」です。 目次 多様な進化を遂げるパチスロ開発 5回リミッター解除により、パチンコ市場が低 […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第10回は「パチスロAT機の登場」です。

目次

多様な進化を遂げるパチスロ開発

5回リミッター解除により、パチンコ市場が低迷する中、パチスロの人気は継続的に拡大していきました。

この時期、1997年から始まった保通協のパチスロ機申請時の「質問書方式」が一つの要因として挙げられます。

質問書のやり取りにより各社が試行錯誤し、多様なゲーム性の機械が開発され、日電協の内規改正を受けてCT機、大量獲得機、7ライン機などが登場しました。

さらなる革新が起こる中で最大の要因は、サブ基板搭載が可能になったことです。

これにより、パチスロにも液晶搭載が可能となり、サブ化により演出面の向上が図られました。

液晶演出や音声、ランプなどの制御をサブ基板で行い、メイン基板では出玉に関係する部分のみを制御する仕組みが採用されました。

これにより、演出面のクオリティ向上が実現しました。

しかし、パチスロでは演出面だけでない要素が存在しました。

メイン基板とサブ基板の双方向情報送信は禁止されていましたが、「メイン基板からサブ基板への一方向情報送信はOK」という制約がありました。

この部分が大きなカギを握っていました。

1999年7月に山佐製の「シーマスターX」、同年12月にアルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)製の「大花火」が発売され、これらの機種には演出用のリールが搭載されました。

特に注目されたのは、「レバーON時に成立している小役を告知する機能」でした。

この機能は後に「AT(アシストタイム)機」の基盤となり、新たな時代を切り開くこととなりました。


サブ基盤による「AT機」の登場

2000年5月、サミーより「ゲゲゲの鬼太郎SP」が「史上初のAT機」として発売され、これがパチスロ界における新たな時代を切り開きました。

前年の1999年から始まった「サブ基板搭載」により、パチスロには液晶搭載機が次々と登場し、サブ基板全盛期となっていました。

サブ基板は元々「出玉性能に関連しない、演出面の制御」のためのものでしたが、サミー製「ゲゲゲの鬼太郎SP」では新たな概念「AT」が生まれました。

これは、サブ基板からメイン基板への信号の伝達が許可されていることを利用し、「メイン基板からサブ基板へのフラグの成立信号」を使った小役告知機能が搭載されました。

通常時の小役確率は3分の1になり、AT中にはどの小役が成立しているかが表示され、指示通り目押しすることで3倍の確率で小役が入賞する特殊な状態を生み出しました。

この「AT」が導入され、同時に「サブ基板の制御が出玉率に直接影響を与える」新しいゲーム性が生まれると、パチスロの進化が加速しました。

しかし、当初のAT機は単なる次のボーナスまでコインを減らさない機能に過ぎませんでした。

その後、2000年9月にサミー製「ディスクアップ」が登場し、AT機能に加えてリプレイ確率がアップする「RT」を複合させた「ART」機能を搭載。

このART中のベースが150%となり、「ATでコインが増加する」時代が到来しました。

これにより、パチスロは新たな魅力とゲーム性を提供し、プレイヤーたちに大きな興奮をもたらしました。



AT全盛期「獣王」の登場

2000年11月、エレコ製「イーカップ」が「初の押し順ナビ搭載機」として登場しました。

この新しいATのゲーム性は「目押しナシで押し順ナビに従うだけ」というもので、後のパチスロ界に大きな影響を与えることとなりました。

ただし、「イーカップ」自体はAT中のベースが100%でしかなく、コインが増える仕様ではなかったため、大きなヒットには至りませんでした。

しかし、2001年1月10日にサミー製「獣王」が発表され、これが「スーパーAT」と名付けられたATの新たな時代を切り開きました。

このATは1ゲームの純増枚数が10枚、10ゲームまたは30ゲームのセットで獲得枚数は100枚または300枚程度でありながら、激しい連続性を持ち、一撃で数千枚、一日の差玉で10,000枚の獲得も可能な爆発的なゲーム性を備えていました。

アシストに従って目押しをすれば、設定6での平均獲得枚数は理論値で7,500枚程度、出玉率で約140%という脅威のスペックであり、大ヒットを記録しました。

その後、各メーカーから続々とAT機が登場し、「AT全盛期」を迎えました。

獣王発売から約一年後の同年12月には、ロデオ製「サラリーマン金太郎」が「スーパーAT」に「押し順ナビ機能」を併せ持った機種として登場し、こちらも大ヒットとなりました。

2002年に入ると、通常時のベースをカットし、射幸性を極限まで高めたサミー製「アラジンA」や、ミズホ製「ミリオンゴッド」などが登場し、ホールでは一日の差玉で50,000枚を越す事例まで現れ、異常事態とも言える状況が生まれました。

これにより、爆裂AT機時代は頂点を極めました。


ストック機の登場と進化

2000年10月、初のAT機「ゲゲゲの鬼太郎SP」が発売された同年、ネット製「ブラックジャック777」が発表されました。

この機種は「リプレイタイム」と呼ばれる機能を搭載しており、リプレイタイム中に引いたボーナスは全てストックされるという革新的なゲーム性が市場で注目を集め、これが「ストック機」の原点となりました。

その後、この機能を進化させた山佐製「スーパーリノ」が2001年9月に発表され、こちらのリプレイタイムは通常プレイと変わらず進行していく中でボーナスがサイレントにストックされていく「サイレントストック」と名付けられて発売されました。

この機能は「合法的な貯金方式」として受け入れられ、以降さまざまな機種に採用されました。

AT機が全盛を迎える中、ストック機もまた存在感を示し、ホールにおいてはこれまでにないムーブメントが巻き起こりました。 パチスロ史上初めての試みであるストック機は、ボーナスを進行中にストックできるという新たな要素を加え、プレイヤーたちに新しい遊技体験を提供しました。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第⑪回は「パチスロ押し順ナビの登場」をお伝えします。

#歴史

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パチンコの歴史⑨ パチンコ復活への兆し https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A8-%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%85%86%E3%81%97/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A8-%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%85%86%E3%81%97/#respond Mon, 10 Jun 2024 09:20:50 +0000 https://chance-up.jp/?p=720 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第9回は「パチンコ復活への兆し」です。 目次 パチンコは射幸性から演出向上へ 1998年、ついにパチスロの設置台数が100 […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第9回は「パチンコ復活への兆し」です。

目次

パチンコは射幸性から演出向上へ

1998年、ついにパチスロの設置台数が100万台を超え、CT機、7ライン機、大量獲得機など新ジャンルの導入により、射幸性とゲーム性が広がりました。

一方で、パチンコは依然として厳しい状況が続いていました。

その要因は「5回リミッター規制」にありました。

この規制は、1996年10月1日から保通協に持ち込まれる機種に対して「①確率変動は次回までとすること(2回ループの禁止)」「②確率変動の突入率・継続率は2分の1を超えないこと」、そして「③確率変動の連続合計値が80ラウンドを超えないこと(16R×5回)」という制限を日工組の組合員に課すものでした。

この厳しい規制の下で、パチンコは出玉性能において大きくパチスロから遅れを取っていました。

しかし、パチンコ業界は販売台数の減少に歯止めをかけるために、演出面において企業努力を開始しました。

その転機が1997年5月28日に行われた「パチンコ・パチスロ新型機発表展示会」でした。

このイベントで注目を浴びたのは、田川寿美とのタイアップ機である京楽産業製の「CR華観月X」と、吉本興業とのタイアップ機である大一商会製の「CR寛平笑劇場V4」でした。

その後、1997年12月には当時最大の液晶画面(10.4インチ)を搭載したタイヨーエレック製の「CR海底天国7」が登場し、翌1998年には三星(現・サンセイR&D)製の「CRがきデカ3」、10月には平和製の「CRルパン三世K」が発売されました。

これらの機種は、タイアップと液晶の巨大化により、射幸性ではなく演出面での楽しみを提供する工夫が凝られていました。

これらの取り組みは、現代のパチンコ・エンターテインメントの原点と言えるものであり、5回リミッター規制の中で急激な演出面の向上が生まれる契機となりました。


パチンコ新基準による光明

1999年1月13日、日工組は内規変更を発表し、これにより大きな変革がパチンコ業界に訪れました。

主な変更点は4つあり、それぞれがパチンコ機のスペックに大きな緩和をもたらしました。

これらの変更は、パチンコの新たな展開となり、ヒット機種が次々と登場する契機となりました。

まず一つ目は賞球数と下限確率の緩和です。

これにより、大当たり確率を320分の1よりも甘くする場合、最低賞球が大きく増えることが可能となりました。

これにより、より多くの賞球を手に入れられるようになりました。

次に確変中確率の緩和。

以前は「50分の1より辛くする」のが上限でしたが、新基準では「大当たり確率の10倍を超えない範囲」となり、より高い確変中確率が許容されました。

三つ目は確変報知手段の緩和。

以前は大当たり時に確率変動突入か否かを即座に報知しなければなりませんでしたが、新基準では「大当たり確定時から大当たり終了後の最初の特別図柄の変動開始時までの間に報知する」と変更。

これにより、ラウンド中の確変昇格演出が可能になりました。

最後に注目されたのは確変突入率と、変動率ごとによるリミッター回数の緩和。

確変が2分の1以下の場合、一度の出玉が2,250個以内ならリミッターは付けなくてもよくなりました。

これにより、より多くの連荘が可能となりました。

これらの大幅な内規変更により、主流となったのは「大当たり確率315.5分の1、確変50%、5&15、15R、リミッター無し」という新しいスペック。

最初のリミッター解除機として登場したのはSANKYO製「CRフィーバーゼウスSX」で、この変更により新しい時代が幕を開けました。



新スペック機の登場

1999年1月13日、日工組の内規変更により、ついに5回リミッターが解除されたパチンコ機。

これに伴い、大当たり確率を320分の1よりも甘くする場合に限って賞球5&15が可能(それまでは6&15)とするなどの新しいスペックが誕生しました。

その後、三洋物産製の「CR海物語3R」が登場し、これが大ヒット。

新たな時代のスタートとなり、「大当たり確率315.5分の1、確変50%、5&15、15R、リミッター無し」が主流のメインスペックとなっていきました。

同年には、新たなスペックを持つ機種も登場しました。

一つは藤商事製の「CR妖怪演芸FN」で、初の確変突入率3分の2の機種として注目されました。

しかし、内規上の理由から出玉1,500個で8回リミッター搭載という点がファンに受け入れられず、ヒットには至りませんでした。

しかし、後の確変高継続率機への道を切り拓いたチャレンジ機と言えるでしょう。

もう一つは京楽産業製の「CRジャングルパークXLTD」。

これは初の回数切り確変機として登場し、現在の「ST機」のルーツとなる機械でした。

大当たり確率を239.5分の1と大幅に甘くし、確率変動となっても「20回転で確変が終了する」という斬新なスペックでした。

しかし、内規上の理由から確変率は50%が上限で「100%確変」ができなかったため、ファンの支持を得るには至りませんでした。

この後もST機はいくつか登場しますが、確変突入率が2分の1でST機という点が変わらず、なかなか支持されない結果となりました。

なお、この時期には「次回まで確変」バージョンの機種も登場し、市場でヒットを記録していますが、実際には「10,000回転まで確変」となっていたことが興味深い事実です。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第10回は「パチスロAT機の登場」をお伝えします。

#歴史

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パチンコの歴史⑧ パチスロ4号機の台頭 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A7-%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%AD4%E5%8F%B7%E6%A9%9F%E3%81%AE%E5%8F%B0%E9%A0%AD/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A7-%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%AD4%E5%8F%B7%E6%A9%9F%E3%81%AE%E5%8F%B0%E9%A0%AD/#respond Mon, 03 Jun 2024 10:25:27 +0000 https://chance-up.jp/?p=723 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第8回は「パチスロ4号機の台頭」です。 目次 パチンコ依存症に対する業界自主規制 社会的不適合機の撤去後、パチンコ業界は「 […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第8回は「パチスロ4号機の台頭」です。

目次

パチンコ依存症に対する業界自主規制

社会的不適合機の撤去後、パチンコ業界は「CR機2回ループ仕様」がファンに支持され、大きなブームを迎えました。

しかし、その後「2回ループ+時短機」の登場により、「CR機の射幸性の高さ」が社会問題となり、様々な負の側面が浮き彫りになりました。

子供が車中に置き去りにされる事故や偽造カード問題などが発生し、「パチンコ依存症」の言葉も登場しました。

この頃、1996年7月に日遊協が「一回に5万円を超える勝ち負けをなくす」などの自主規制方針を発表し、全日遊連、日遊協、日工組、日電協の4団体が「お客様への10の約束」を発表しました。

これには、「玉箱は手元に1箱、足元に3箱以上積まない」「モーニングの禁止」などが含まれています。

しかし、都遊協の発言により、5万円までの制限ではなく、2万円や3万円にするべきだとの指導があり、その後、遊技機メーカー各社が自主的な販売自粛を始めました。

例えば、SANKYO製「CRフィーバービッグパワフルEX」は、当時の規則をクリアしつつも、画期的なアイデアである「液晶画面は飾り図柄で、実際の特図はセグ」という仕様を採用しました。

この機種は自主的に「9回リミッター」が搭載され、自粛ムードの中で販売されましたが、その後の市場での動向が変化しました。

1996年11月以降、各メーカーが発表した機種は突入率が低かったり、ラウンド数が10ラウンドだったりと、事実上フルスペック機は導入が難しくなりました。

この時期の自主規制が、業界の将来に大きな影響を与えることとなりました。


内規改正、パチンコからパチスロの時代へ

1996年10月1日、日工組は大きな決断を下し、非常に厳しい内規への改正を実施しました。

これにより、保通協に持ち込まれる機種に対して「①確率変動は次回までとすること(2回ループの禁止)」、「②確率変動の突入率・継続率は2分の1を超えないこと」、そして「③確率変動の連続合計値が80ラウンドを超えないこと」の3つの厳しい条件が組合員に義務付けられました。

これは通称「5回リミッター規制」と呼ばれ、1回の大当たりが16ラウンドならば最大で5回の連続当たりまでしか確変を継続できない仕組みでした。

この新しい規制により、確変が最大5連チャンまでしか継続しないという制約が生まれ、ファンの投資金額に上限が設けられることとなりました。

この「5回リミッター規制」の導入により、パチンコ市場は急速に冷え込んでいきました。

既に2回ループ機を設置しているホールも、新たな「5回リミッター機」の導入を控えざるを得ませんでした。

この規制が業界全体に与えた影響は甚大で、遊技機メーカーの業績にも大きな打撃を与えました。

これにより、日本社会のバブル崩壊から6年後、パチンコ業界はついに「CRバブル」の終焉を迎え、冬の時代を迎えました。

しかしながら、この苦境に立たされた業界に新たな救いの手が差し伸べられます。

それが「クランキーコンドル」と「ウルトラマン倶楽部3」などのパチスロ4号機でした。


パチンコリミッター不況を救ったパチスロ4号機

1996年10月1日、保通協による新たな規制が施行され、パチンコ業界は「2回ループ禁止」「確変率50%まで」「確変5回リミッター」などの厳しい条件に直面し、CRバブルは終焉を迎えました。

しかし、この苦境を打開する救世主が登場したのは、パチスロ機でした。

既に1990年10月の規則改正以降、パチスロは「4号機」として新たな規制が導入されていました。

基本的には3号機に比べて規制が強化されていたが、その中で「リプレイハズシ」と呼ばれる新たなゲーム性が生まれました。

初めてこの新しいゲーム性が試されたのは、1992年12月にエレクトロコインジャパン製の「チェリーバー」が登場した際でした。

この機種には「リプレイハズシ」が秘められており、これが後のパチスロ界に革命をもたらすことになりました。

「リプレイハズシ」では、JACイン(リプレイ揃い)を目押しで阻止し、小役ゲームを引きのばして獲得枚数を増やすという戦略が取れました。

特に「チェリーバー」では、2枚入れでJACイン確率が上がり、残りゲーム数が少なくなると2枚入れにすることで、3回目のJACインも取りやすいという特徴がありました。

その後、山佐製「ニューパルサー」やユニバーサル販売製「クランキーコンドル」などが登場し、「リプレイハズシ」仕様の機種が次々に発売されました。

これにより、若者層を中心にパチスロの人気が急上昇し、パチスロは「5回リミッター規制」以降のパチンコ不況を打破し、設置台数の増加スピードが加速していきました。

1996年の規制以降、パチスロが業界を支える存在となり、新しい時代の幕開けとなりました。



パチスロの新機能「CT」導入

1996年10月15日、日電協は自主規制対応機案として「Bタイプ(JACゲーム2回)にチャレンジタイム(CT)を付加する」内容を発表し、この発表をきっかけにパチスロ機には大きな変革が訪れました。

その中でも、サミー製「ウルトラマン倶楽部3」とエレクトロコインジャパン製「アステカ」は特に大ヒットし、パチスロ機の人気を加速させました。

CT機は当初、「目押しがうまい人しか打てない」とされていましたが、各社が見やすい図柄を狙ってコインを増やすための工夫や、一定枚数に達してもCTが終了しないようにハズして現状維持を狙う戦略などが生まれ、目押しの腕前に自信のないプレイヤーでも簡単に遊技できるようになりました。

しかし、予想に反してCT機は「1万枚オーバー」という高い射幸性があり、ホールでは大きな人気を博しました。

同時期に遊技機基準が変更され、ジャンルが多様化していく中、業界はこれまで経験したことのない追い風に乗ることとなりました。

ただし、この追い風が最終的には5号機規制へとつながるきっかけとなることは、当時の業界にはまだ認識されていませんでした。


「7ライン機」の登場

CRバブルの終焉に伴い、ユニバーサル販売(現ユニバーサルエンターテインメント)製「クランキーコンドル」やサミー製「ウルトラマン倶楽部3」などの斬新なパチスロ機が登場し、業界不況を打破しました。

そのなかでも、1998年10月に山佐が発売した「ドクターエー7」と「アストロライナー7」は、新たなジャンルとして注目されました。

この2機種は、通常の5ライン機にはない「有効ライン数7ライン」というゲーム性を導入した画期的な機種でした。

当時、有効ライン数に特に規定はなく、慣例的に「1枚投入で1ライン・2枚投入で3ライン・3枚投入で5ライン」というゲーム性が一般的でした。

しかし、「7ライン」という選択は、ビッグボーナス確率と密接な関係がありました。

当時の規則では、ビッグボーナスは「表面上、全組み合わせの1,500分の1を超えないこと」と定められていました。

通常の5ライン機では、最大でボーナス図柄の並び方が30通りまでしか設定できませんでした。

一方、「7ライン機」ではボーナス図柄の組み合わせが増え、「6×7ライン=42通り」となりました。

これにより、ビッグボーナス確率も「9,261分の42」の±30%の範囲内で設定でき、通常の5ライン機よりも広い確率範囲での調整が可能となりました。

最大の特徴は、これまでの約240分の1までしか甘くできなかったビッグボーナス確率を約170分の1まで甘くできる点であり、これが「7ライン機」の革新的な要素でした。


「大量獲得機」の登場

1998年4月1日、遊技機規則の「技術上の規格解釈基準」が改正され、これまでの「入賞に係る図柄にはリプレイを含めない」新たな基準が導入されました。

これにより、ビッグ・レギュラー・小役・リプレイを含むすべての入賞図柄が対象となり、その合計数は全体の11%~40%に制限されました。

この基準変更により、小役の組み合わせが増え、図柄配列の自由度が向上しました。

同時に、図柄の引き込みに関する計算方法も変更されました。

さらに大きな変化は、保通協の型式試射試験時において「期待値」のチェックがなくなり、「出玉率」と「連続役物比率」をクリアすれば適合するように検査方法が変わったことです。

以前は「ビッグボーナス中の小役ゲーム中の出玉期待値は2.0を超えないこと」が適合条件に含まれていましたが、新しい試験方法では「目押しせず順押しで消化した場合に、出玉率と連続役物比率がOKなら適合」となりました。

これにより登場したのが「大量獲得機」で、ビッグボーナス中のJACゲームシフト確率が下げられ、ボーナス中の小役ゲーム中は「目押しせず順押し消化すれば、出玉率、連続役物比率ともクリアする」仕様で、特に小役ゲーム中に「リプレイハズシ」や「特定小役目押し」を駆使すれば最大で600枚近く出る機種が登場しました。

最初の大量獲得機はサミー製の「Bin貧神さま」で、その後もIGTジャパン製「ホッパーキング」や山佐製「花月」などが続々と登場し、アルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)製の「大花火」が空前の大ヒットを記録しました。

この1998年は、パチンコの5回リミッターによる冷え込みを補完し、飛躍的にパチスロが設置台数を伸ばした年であり、パチスロ界において転機となった年と言えるでしょう。

ニューパルサーの一色だったパチスロのシマに、Aタイプの「サンダーV」や「HANABI」、CT機の「ウルトラマン倶楽部3」、7ライン機の「ドクターエー7」、大量獲得機の「Bin貧神さま」や「ホッパーキング」などが次々と導入され、一部店舗では後に検定取り消し処分となる「リズムボーイズ」なども導入されました。 単純な射幸性の向上だけでなく、ジャンルの広がりや選択肢の多様性、さらには「バラエティ化」が成功したことが、この時期の設置台数が歴史上初めて100万台を超える大成功につながったのです。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第9回は「パチンコ復活への兆し」をお伝えします。

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パチンコの歴史⑦ CR機普及と射幸性の増大 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A6-cr%E6%A9%9F%E6%99%AE%E5%8F%8A%E3%81%A8%E5%B0%84%E5%B9%B8%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%A2%97%E5%A4%A7/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A6-cr%E6%A9%9F%E6%99%AE%E5%8F%8A%E3%81%A8%E5%B0%84%E5%B9%B8%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%A2%97%E5%A4%A7/#respond Mon, 20 May 2024 11:32:12 +0000 https://chance-up.jp/?p=716 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第7回は「CR機普及と射幸性の増大」です。 目次 CR機の普及遅れと名機の影響 鳴り物入りで登場したCR機は、導入コストや […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第7回は「CR機普及と射幸性の増大」です。

目次

CR機の普及遅れと名機の影響

鳴り物入りで登場したCR機は、導入コストやランニングコストの高さ、スペックの弱さなどが原因で市場での普及が進まなかった。

確率変動機能搭載ではあるものの、確変突入率や継続率が低く、その多くが電チュー非搭載機種で確変中も玉が減るといった問題がありました。

市場には「保留玉連チャン現金機」が多く存在し、CRを導入するメリットがほとんどない状況でした。

しかし、連チャン現金機は合法であるかどうかが曖昧なグレーゾーンに位置しており、行政も放置できない状態でした。

日工組も1993年7月に一部機種の販売自粛、10月15日には同年3月31日以前に申請された連チャン機の受注制限を決定しました。

その後、「ダービー物語事件」が発生し、行政の本気度が感じられたことから、翌1994年にはCR機の内規が緩和されました。

確率変動が10倍アップまでで最高50分の1まで許容され、一度確変に入れば次の次の大当たりまで確変が続く「2回ループ」が認められました。

この中で登場したソフィア・西陣製の「CR花満開」は、一部のホールで設置され、一定の人気を博しました。

しかし、その勢いは限定的であり、市場全体ではCR機の導入が一気に進むことはありませんでした。

ホールの設置機種には「絶対に外せない名機」が多く、例えば「フィーバーパワフルⅢ」「麻雀物語」「フィーバークィーンⅡ」「ダイナマイト」など、これらの名機が圧倒的な存在感を持っていました。

そのため、CR機を導入することはこれらの名機を撤去することを意味し、その決断を躊躇するホールが多かったのです。

現金機の名機が市場に多く残存していたことが、CR機の普及を阻む一因となりました。


社会的不適合機の撤去とCR機の急激な普及

1995年、日遊協内に設置された「遊技機のあり方に関する検討委員会」が、遊技業2001年会から選出された8委員によって構成されました。

この委員会は、遊技機の適度な射幸性について検討を行い、その結果「社会的不適合機」の選定と自主撤去が決定されました。

最終的には全108機種、全国の設置総台数約70万台におよぶ大規模な自主撤去が行われました。

1996年9月12日、第一次社会的不適合機は1997年1月末までに撤去、第二次は同5月末までに、第三次は同9月末までに撤去するよう決定されました。

また、1997年9月の理事会で決定された第四次も同10月1日に発表され、翌年1月末までの撤去が決まりました。

これらは検定取り消しではなく「自主撤去」であったが、多くのホールがこれに従い撤去を進めました。

代替機としては、「CR・黄門ちゃま2」「CRバトルヒーローV」などを代表とする「CR・2回ループ機」が導入されました。

この「社会的不適合機」の撤去により、CR機の導入が急激に加速しました。 しかし、一方で「CRの2回ループ機の方が、撤去した社会的不適合機より射幸性が高い」という矛盾が問題視され始めました。



CR機の普及と2回ループ機の隆盛

「社会的不適合機」の撤去に伴い、CR機の導入が急激に進展しました。

市場には「確変なしの完全ノーマル機」と、「確変図柄なら以後2回当たるまで確変の2回ループ機」といった2つの選択肢しか残らなかったため、多くのホールがCR機導入に踏み切りました。

特に「CR黄門ちゃま2」「CRバトルヒーローV」などを代表とするCR2回ループ機は、予想以上の成功を収めました。

これらの機種は、当時から「CR2回ループ機の方が、撤去した社会的不適合機より射幸性が高い」とまで言われ、その高い連チャン性に多くのファンが魅了されました。

液晶技術の進化により、演出面でも完成度が向上しました。

当時の主要な2回ループ機のスペックは、確変突入率は3分の1、大当たり確率は400分の1前後で、確変で当たれば2回連続で通常図柄を引くまで確変が継続しました。

計算上の確変継続率は55.6%と見えますが、確変図柄で当たった場合は「最悪でも3回分の大当たりが確約」され、確変大当たり時の平均大当たり回数は5.25回、獲得玉数は12,600個に達しました。

現在の日工組内規では、最大期待出玉が6,400個、総量規制が7,900個までとなっています。

さらに「スマパチ」に搭載されている「Cタイムの引戻し」も考慮しても、引き戻しは20%以内に規制されています。

これに含めても最大で9,875個となり、ヘソでの初当たりが1,500個であっても最大値は11,375個と、当時の2回ループ機には及びません。

当時の市場は「40個交換」が主流であり、無制限ではなくラッキーナンバー制が広く採用されていました。

このルール下で「確変で当たれば最低7,000個、平均で12,000個」といった出玉感と、「確変でなくても2,400個は出る」という安心感が、多くのファンの投資意欲を引き起こしました。 ただし、当時から「12,600個」という射幸性には一部で問題視の声もありましたが、当時の行政と業界団体は「CR導入によるインのクリア化」を推進しており、この問題は表面化することはありませんでした。


時短搭載による射幸性の増大

1994年に大ヒットした平和製「CR黄門ちゃま2」の成功に続き、1995年には現金機においても画期的な遊技機「エキサイトレディ2」が登場しました。

一部で問題視された「ダブルスタンダード」にもかかわらず、「エキサイトレディ2」は時短システムを導入し、連チャン機や確変機能が制限された現金機に新しい選択肢をもたらしました。

この時短システムは、電チュー確率は変動しないが、電チュー抽選のデジタル変動秒数が短くなる期間を設け、実質的に玉が減らないようにするというアイデアでした。

この時短システムはCR機にも波及し、1995年にマルホン工業が発売した「CRスパークシュート」がその先駆けでした。

この機種は2回ループ機でありながら、「通常大当たりおよび確変終了後に50回転の時短」が搭載され、その後、他社からも「2回ループ+時短機」が次々と登場しました。

最も高い射幸性となるスペックである「2回ループ・オール16ラウンド・時短100回」というスペックを持つ三洋物産製「CR大工の源さん」が1996年に登場し、高い確率と時短の組み合わせが支持され、40万台を超える大ヒットとなりました。

しかし、時短が加わったことで期待出玉が増加し、結果として「CR機の射幸性の高さ」が問題視されるようになりました。

市場に一定数のCR機が設置され、2回ループに時短が追加されたことで、射幸性が飛躍的に向上したことが問題視されました。 これがきっかけとなり、CR機の射幸性に対する懸念が表面化し、今後の市場動向に大きな影響を与えることとなります。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第8回は「パチスロ4号機の台頭」をお伝えします。

#歴史

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パチンコの歴史⑥ 連チャンブームとCR機の登場 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A5-%E9%80%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%A8cr%E6%A9%9F%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A5-%E9%80%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%A8cr%E6%A9%9F%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4/#respond Tue, 07 May 2024 10:38:11 +0000 https://chance-up.jp/?p=714 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第6回は「連チャンブームとCR機の登場」です。 目次 パチスロ2号機から3号機への規則改正 1990年の規則改正において、 […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第6回は「連チャンブームとCR機の登場」です。

目次

パチスロ2号機から3号機への規則改正

1990年の規則改正において、パチンコは「一発台」や「おまけチャッカー付きデジパチ」などが禁止され、一方でデジパチの出玉性能が拡大されました。

一方で、パチスロにおいては厳格な規制が導入されました。

この改正以前、パチスロは2号機時代において大幅な緩和が行われ、新しいジャンル分けや集中役の人気などが生まれました。

2号機では貯留50枚まで搭載OKや新しいジャンル分け、集中役に関する緩和があり、パチスロは大きく変容しました。

しかし、新たな規制も導入され、ゲーム数や吸い込みの禁止、完全確率方式の採用などが規制されました。

特に完全確率方式の採用により、連チャン機が姿を消し、Aタイプの人気も低下していきました。

1990年の規則改正では、パチスロにおいても集中役に厳しい制限が課されました。

シングルボーナスのみOKで小役の集中は禁止され、集中役は300分の1以上の確率でパンクする規定が導入され、期待獲得枚数は大幅に減少しました。

また、ゲーム数についてもわずかな修正が加えられました。 この規則強化により、パチスロ3号機は以降、予期せぬ進展を迎えることとなりました。


過激な連チャン性と裏物時代

1990年代に入り、パチスロ3号機の時代が幕を開けました。

集中役に規制がかかり、2号機のようなゲーム性が望めなくなった中、一部の機種が新たな展開を見せました。

山佐製の「スーパープラネット」は、ボーナス終了後に連チャンに近いスランプ状態を作り出す独自のゲーム性で人気を博しましたが、2号機の高い射幸性に慣れたファンには物足りなさを感じさせたと言われています。

その後、瑞穂製作所製の「コンチネンタル」が登場し、一発で数千枚の出玉を可能とする過激な連チャン性で注目を浴びました。

しかし、この機種にはコインセレクターに組み込まれた「CS-90」という部品が、予期せぬ仕様で過激な連チャン性を生み出していたことが発覚し、検定取り消し処分を受けました。

1991年に登場したアークテクニコ製「ワイルドキャッツ」とバルテック製「セブンボンバー」も、一時的に書き込みを行う手法により連チャン性を実現していましたが、これらも検定取り消し処分を受ける結末となりました。

これらの機種は正常ではない連チャンをする3号機の一部に過ぎませんでしたが、実際にはメーカーが把握していない手法で「ウラ化」していくことが続き、数々の裏物が登場しました。

有名な裏物機種には「リノ」「ドリームセブンJr」「アポロン」「グレートハンター」「トライアンフ」「アラジンⅡ」「デートライン銀河Ⅱ」などがあり、これにより3号機は「パチスロ総・裏物時代」と呼ばれるほどの状態になりました。

攻略法が可能な機種も多く存在し、パチスロの裏の世界が拡がる中で、攻略雑誌が好調な売れ行きを示し、ホールには朝から多くの客が並ぶ光景が広がりました。

この一方で、パチスロの人気は上昇し、非常に活気ある時代を迎えましたが、同時に違法な手法や攻略法が横行することとなりました。



パチンコ業界におけるカード化の波乱

1990年代初頭、パチンコ業界では「CR機構想」が進行しましたが、これは業界内での受け入れが容易ではなく、複雑な展開を辿りました。

初のCR機が登場するのは1992年でしたが、その背景には数年前から始まった「ハウスカードシステム」の導入が関係していました。

1986年に初めて導入されたこのシステムは、パチンコ店内で購入したプリペイドカードを利用して玉を借りるというもので、全遊協(全国遊技業協同組合連合会)が行政に打診して許可されました。

しかし、このシステムはホールの集金業務の軽減というメリットがある一方で、遊技客には不便さがあり、あまり支持を得られませんでした。

同時期に、行政側は「INのクリア」を模索し、脱税関連の問題を解決する必要性を感じていました。

これを受けて、いくつかの企業が「全国共通プリペイドカードシステム」の導入を警察庁に陳情し、1988年にはいくつかのカード会社が設立されました。

全遊協はこの動きに窮し、ハウスカードの導入に対しては難色を示す一方で、別の団体である現在の日遊協(一般社団法人 日本遊技関連事業協会)がCR導入を積極的に進めるなど、業界内での意見が分かれました。

結局、全遊協は内部分裂を起こし、1990年に解散することとなりました。

この波乱の中で、1992年に初めて登場したCR機は、新たな時代を切り拓く一方で、業界内外の対立と混乱を象徴する出来事となりました。


CR機の登場と現金機の連チャンブーム

1992年8月、日本のパチンコ業界に初めて登場したCR機は、多くのメーカーにより同時に発表されました。

SANKYO製「CRフィーバーウィンダムⅠ」、ソフィア・西陣製「CRうちどめくん」、京楽産業製「CRフラワーショップ」、ニューギン製「CRエキサイトロイヤル」、三洋物産製「CRミラージュナイト」、竹屋製「CRノーザ」など、これらの機種はCRユニットと接続し、新機能として「上皿から貸玉を払いだす」だけでなく、「統一キー」と「3段階設定機能」、そして大当たりの「確率変動機能」が搭載されていました。

この「確率変動機能」は、1992年に行われた国家公安委員会規則の一部改正で初めて認められたものでした。

法的には現金機でも搭載可能でしたが、実際にはCR機だけがこの新機能を搭載し、「ダブルスタンダード」として問題化されることとなりました。

しかし、鳴り物入りで登場したCR機は、ホールにおいてテスト導入後に普及しないという結果に終わりました。

この普及が阻まれた理由には、導入にかかるコストが挙げられます。

イニシャルコストだけでなく、データ通信費用などのランニングコストが高額であり、ホール側が二の足を踏むケースが多かったことが挙げられます。

もう一つの理由は、当時のCR機が確率変動機能搭載といえども、突入率や確変中の玉の減少が少なく、ファンにとっては魅力に欠けていたことです。

一方で、この時期の現金機は保留連チャン機全盛時代であり、連チャン機ブームが続いていました。

プログラム上はノーマル機種であったが、エラー回避処理を利用した連チャン機が多数登場し、大ヒットを記録していました。

CR機の導入コストもなく、性能・人気ともに優れていたため、CR機が進まない時代でした。

1992年には、現金機の中でも平和製「麻雀物語」やSANKYO製「フィーバーパワフルⅢ」などがヒットし、連チャン機が依然として人気を博していました。

このような状況から、CR機の導入は難航し、業界は再び現金機の魅力に引き寄せられていくこととなります。


「ダービー物語」の取締り

遅々として進まないCR機の普及状況に不満を募らせた行政側は、その原因を現金機の射幸性の高さに求め、特に「ダービー物語」を標的に据えました。

1993年に登場した平和製の「ダービー物語」は、確率235分の1で16ラウンド、10カウントで15個賞球、大当たり払い出し2,400個というスペックを持っていました。

ノーマル機でありながら、「一定条件が整えば連チャンする」という特性を持ち、人気を博していました。

この機種は大当たり中に発生する「激しく光る演出」が原因でスタックオーバーが発生し、エラーが生じるという特徴がありました。

エラーが発生すると、保留玉の乱数が書き換わり、再度大当たりする可能性が高まりました。

行政はこの機種を通じて、保通協型式試験時とホール設置時の釘調整の違いに注目し、取り締まりの対象としました。

1993年10月19日、埼玉県警と大宮署が平和本社および工場を家宅捜査し、埼玉営業所と県内の設置店から約200台の「ダービー物語」を押収。

容疑は「風俗営業適正化法違反(無承認変更)」で、アタッカー周辺の釘曲げが行われていたとされました。

メーカーの営業マンや埼玉営業所社員も逮捕され、波及していったが最終的には全員が起訴猶予処分で釈放される結果となりました。

この事件以前から、行政側からはメーカーに対し自粛の要請があったとされ、日工組も1993年7月に一部機種の販売自粛を行っていました。

そして、1993年10月15日には日工組が緊急会議を開き、同年3月31日以前に申請された連チャン機の受注を一定期限までに制限しました。

その翌日には「ダービー物語」事件が発生し、行政の本気度が表れた出来事でした。

翌1994年、CR機普及への姿勢を見せるため、日工組は内規を緩和し、確率変動を10倍アップまたは最高50分の1まで許容。

一度確変に入れば次の大当たりまで続く「2回ループ」を認めました。

しかし、それでもなおCR機の導入は容易ではありませんでした。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第7回は「CR機普及と射幸性の増大」をお伝えします。

#歴史

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パチンコの歴史⑤ 一発台の盛衰と規則改正 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A4-%E4%B8%80%E7%99%BA%E5%8F%B0%E3%81%AE%E7%9B%9B%E8%A1%B0%E3%81%A8%E8%A6%8F%E5%89%87%E6%94%B9%E6%AD%A3/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A4-%E4%B8%80%E7%99%BA%E5%8F%B0%E3%81%AE%E7%9B%9B%E8%A1%B0%E3%81%A8%E8%A6%8F%E5%89%87%E6%94%B9%E6%AD%A3/#respond Mon, 15 Apr 2024 01:28:59 +0000 https://chance-up.jp/?p=496 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第5回は「一発台の盛衰と規則改正」です。 目次 「一発台」の登場とフィーバー機の脱却 1980年12月21日、フィーバー機 […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第5回は「一発台の盛衰と規則改正」です。

目次

「一発台」の登場とフィーバー機の脱却

1980年12月21日、フィーバー機は初めてエース電研の直営店である「パチンコ白鳥」に導入され、全国に広がることとなりました。

しかし、その過激な射幸性から社会問題となり、1981年に「30秒開放・10ラウンド規制」、1984年には「10カウント規制」が導入され、最大1,300発までの出玉制限が課せられ、フィーバーブームは急速に下火となりました。

この中で、一部のファンは「ハネモノ」「権利モノ」では足りず、「一発台」が求められるようになりました。

「一発台」はもともとジャンルとして存在せず、「平台」と呼ばれるチューリップ機を釘の調整により一発台に変えたものでした。

特定のチューリップに入賞すれば通常は閉じるはずのチューリップが開いたままになり、玉が別の入賞口に容易に入り続け、店側が強制的に終了させる「打ち止め」まで出玉が続く仕組みでした。

この「一発台」の仕組みを応用し、フィーバー機にも採用できないかというアイデアから、1987年にはニューギン製「サンダーバーズI-A」が登場しました。

この機種は通常のフィーバー機とは異なり、表示部に縦5機×横5機の飛行機が配置され、特定の列が揃うと大当たりとなる独自の仕組みを採用していました。

しかし、最も革新的だったのは、出玉性能の向上でした。

通常のフィーバー機が制限された1,300発に対し、この機種は2,000発以上の出玉が容易にできるように工夫されていました。

その秘密は、ハネの形状を持つアタッカーがボードの上部に搭載され、大当たり中に左右にハネが開き、通常難しい左右のチャッカーに入賞しやすくする仕組みでした。

これにより、通常よりも多くの玉が入賞し、2,000発以上の出玉が可能となっていました。

この機種は「おまけチャッカー」と呼ばれる左右のチャッカーの仕組みを初めて導入しました。

しかし、表示部の特異性から大ヒットには繋がりませんでした。

それでもこの新しい仕組みは各社に影響を与え、1987年に平和製「ブラボーレーザースペーシー」が登場し、美しいデザインと「おまけチャッカー」を搭載した新しい仕組みにより大ヒットしました。

その後も各社から「おまけチャッカー」付きの遊技機が登場し、フィーバー機の人気は復活の兆しを見せました。


「おまけチャッカー」の進化と「保留玉連チャン機」の登場

「ブラボーレーザースペーシー」を皮切りに、「おまけチャッカー」搭載の機械は次々と進化し、アタッカー形状やゲージが向上していきました。

この進化により、釘調整によっては出玉が増加し、一部地域では問題が発生するほどの激しい出玉合戦が繰り広げられました。

一方で、単発の大量出玉ではなく、連続して大当たりが発生する「保留玉連チャン機」が注目を浴びました。

その代表的な機種が豊丸製の「ドンスペシャルB」で、プログラム上では通常の機種でしたが、大当たり後の処理において発生するスタックオーバーを利用して、連続して大当たりが発生する仕組みでした。

スタックオーバーが発生すると前回と同じ乱数値が使われ、再び大当たりが続くというトリッキーなシステムが組み込まれていました。

このため、「保留玉連チャン機」がホールで大ヒットし、他のメーカーも追随して同様の機種を発売しました。

しかし、1990年に風適法が改正され、「一発台」と同様に「おまけチャッカー」も一掃され、その時代の終焉を迎えました。


国家公安委員会規則改正とパチンコ規制の変遷

1980年代後半以降、1,300発規制が行われ、「一発台」と「おまけチャッカー付きデジパチ」が大ヒットしました。

しかし、80年代終盤には新たな規則改正が予測され、1990年10月1日に実施されました。

この改正により、「一発台」と「おまけチャッカー」が本来の出玉性能から逸脱する問題が解決され、特定の入賞口以外への入賞を容易にする構造が禁止されました。

同時に、パチンコにおいては出玉感を一定程度保ちつつ、規制も緩和されました。

詳細は1990年10月1日に施行された規則改正により、「一発台」や「おまけチャッカー」が姿を消す一方、パチンコにおいては規制の緩和も行われています。

以下は、1990年10月1日施行「遊技機の認定及び型式の検定に関する規則」改正部分の抜粋になります。

別表第3の1

《ハ》役物が作動した場合に当該役物の作動によりその入口が開き、又は拡大した入賞口以外の入賞口への遊技球の入賞が容易になるものでないこと

別表3の2

《へ》遊技球を入賞させることができない入賞口を有しないものであること

(出玉の緩和部分)

別表第2の1

「ロ」《イ》一個の遊技球が入賞口に入賞した場合に、十五個を超える数の遊技球を獲得することができるものでないこと

「チ」《ロ》役物連続作動装置の一回の作動により第一種特別電動役物又は第二種特別電動役物が連続して作動する回数は、十六回を超えるものでないこと

別表第3の1

「ロ」《イ》一個の遊技球が入賞口に入賞した場合に、十五個を超える数の遊技球を獲得することができるものでないこと

「ト」《ロ》第三種特別電動役物の一回の作動による大入賞口の入口の開放等の時間は、十秒間を超えるものでないこととし、また、当該大入賞口の入口の開放等は、おおむね十個の遊技球の入賞により終了するものであること

「ト」《ハ》特別装置は、その作動中に遊技球が特別装置作動領域を通過したとき、又は第三種始動口に十六個を超えない数のうちあらかじめ定められた数の遊技球が入賞したときは、その作動を終了するものであること


規則改正の内容

1990年の規則改正では、「おまけチャッカー」と「一発台」が禁止され、特定の入賞口以外への入賞が容易になる構造が規制されました。

具体的には、「入口が開き、又は拡大した入賞口以外への入賞口への遊技球の入賞が容易にならないこと」と規定されました。

これにより、「オマケチャッカー」の禁止と同時に、「一発台」の大当たり中に玉を増やせるゲージ構成も制限されました。

ただし、正確な規則遵守の範囲内であれば、出玉性能に関しては緩和が行われました。

第1種(デジパチ)においては、最大1,300個が大当たり出玉の上限だったものが、「16ラウンド・10カウント・賞球15個」となり、最大2,400個までの出玉が可能となりました。

第2種(ハネモノ)も同様に、最大800個程度の機械に回帰しつつ、規則改正により出玉性能が向上しました。

第3種に関しても、「16ラウンド・10カウント・賞球15個」の規定が加わり、最大3回権利物で6,000個以上の出玉獲得が可能となりました。

しかし、この規則改正にはジレンマも生じました。

特に第3種の権利物は、「権利発生中に特定チャッカーに16個目まで玉が連続入賞したら、権利が終了する」という新たな制限が追加され、ゲーム性に課題が生じました。

この課題は後に「回転体チャッカー」の導入により解消され、権利物において新たな常識が確立されました。

以上が、1990年のパチンコ規則改正の主なポイントであり、これ以降の規制強化により新たな問題が浮上することとなりました。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第6回は「連チャンブームとCR機の登場」をお伝えします。

#歴史

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パチンコの歴史④ ハネモノ&権利モノ誕生 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A3-%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%83%A2%E3%83%8E%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%83%A2%E3%83%8E%E8%AA%95%E7%94%9F/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A3-%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%83%A2%E3%83%8E%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%83%A2%E3%83%8E%E8%AA%95%E7%94%9F/#respond Mon, 01 Apr 2024 05:36:49 +0000 https://chance-up.jp/?p=494 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第4回は「ハネモノ&権利モノ誕生」です。 目次 ハネモノ「ゼロタイガー」の登場とジャンル形成 1981年、フィーバーブーム […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第4回は「ハネモノ&権利モノ誕生」です。

目次

ハネモノ「ゼロタイガー」の登場とジャンル形成

1981年、フィーバーブームの後、遊技機メーカー平和製の「ゼロタイガー」が登場し、新たなジャンル「ハネモノ」を創り出しました。

この機種の発想は、当時トレンドだったセンターに役物を配置する中で、役物が玉を拾う大きなチューリップとして機能するアイデアから生まれました。

このユニークなアイデアは、役物の動きと連動しながら大当たりを生み出す仕組みで、「ゼロタイガー」が誕生しました。

ゲーム性は、盤面下部の左右落としにボールが入ると役物のハネが開放し、その中のVゾーンに玉が入賞すると大当たりが発生します。

ハネが開放中、再びVゾーンに玉が入ると18回の開閉を繰り返す仕組みで、最高8ラウンドまでの継続が可能でした。

当時の規制がないため、18回の開閉中に何個でも玉を拾うことができました。

この「ゼロタイガー」の登場により、ハネモノのジャンルが確立され、他メーカーも追従する形で新たな遊技機が開発されました。

「グラマン」「ギャラクシーダイバー」「モナキング」などが相次いで登場しましたが、特に三共製「キングスター」は、30秒間に小刻みでランダムな37回の開放を繰り返す独自の動きと、役物内の玉の楽しい動きで大ヒット。

この頃から、ハネモノが多彩な動きや面白い仕掛けで遊技者を魅了し、ジャンル全体が拡大していきました。


フィーバー規制とハネモノの躍進

1981年、ハネモノが新たなジャンルとして登場し、フィーバー機に対抗して独自の進化を遂げていきました。

フィーバー機には「10カウント規制」が施行され、その人気が急速に下降する中で、ハネモノはジャンルの築き上げに成功しました。

ただし、一方でハネモノにも1985年の「風俗営業取締法」による「風適法」が適用され、規制がかかりました。

風適法の施行により、「第一種(フィーバー機)」、「第二種(ハネモノ)」、「第三種(権利物)」といったジャンル分けが行われ、ハネモノも10カウント制限が導入されました。

しかし、ハネモノはフィーバー機と異なり、アタッカーがフルオープンするのではなく、ラウンド中も開閉を繰り返す構造であったため、10カウント規制がファンの支持に大きな影響を与えることはありませんでした。

風適法の施行後、ハネモノの中でも西陣製の「レッドライオン」が新たな適合機種として登場。

役物内にヘリコプターを搭載し、Vゾーン入賞時の爆音やサイレン音などの派手な演出で人気を博しました。

さらに、1986年に平和が発売した「ビッグシューター」は、画期的な仕様で伝説的な販売台数を達成し、40万台以上を売り上げる快挙を成し遂げました。

「ビッグシューター」は、従来のハネモノの基本構造を変え、役物内を上下二つのステージに分けて独自の仕組みを導入しました。

この機種は役物内で玉を貯留するアイデアを取り入れ、継続率アップを視覚的に訴え、瞬く間に大人気となりました。

そのドキドキ感と楽しさがハネモノの人気を不動のものにし、ジャンル全体の進化を促進しました。

一方で、ハネモノのゲーム性に慣れたファン層にとっては、射幸性を求める動きが別のジャンルで生まれ、それが次なるブームを引き起こしていくこととなります。


「権利モノ」ジャンルの歴史と進化

1985年に風適法が施行され、同時に「第一種(フィーバー機)」、「第二種(ハネモノ)」、「第三種(権利モノ)」のジャンル分けがなされ、これによって法的に正確な意味での「権利モノ」が登場しました。

このジャンル分けは2004年の規則改正で撤廃されるまで続き、それ以前から存在していた「その他」と呼ばれる機種も含まれていました。

「権利モノ」の誕生は、1985年以降の法的なジャンル分けによるもので、「Vゾーン入賞で権利発生」→「通常時は無効の始動口が権利発生中は有効になり、始動口入賞でアタッカーや電チューが開放する」などのゲーム性を持ちます。

権利モノは権利パンクがあり、パンク時には「権利発生中に再度Vゾーンに入賞」するか、「最高8ラウンド(1990年から最高16ラウンド)」や始動口に一定数が入賞した時点で終了する仕組みです。

1985年以前から「権利モノ」に似た仕組みを持つ機種も登場しており、古くは手打ち時代から「特定口入賞でチューリップ複数開放」などがありました。

その中でも、平和製「バイキング」や三共、京楽製「ボクシング」などが権利モノの原点に近い要素を持っていました。

これらの機種は、特定の口に入賞するとアタッカーが開放し、一定の条件下でパンクするなど、後の権利モノの進化に繋がる要素が見られました。

1981年と1982年には、権利モノの原点となる機種として平和製「バトルエース」と京楽製「コスモアルファ」が登場し、これらの機種は「Vゾーン入賞で権利発生」などのゲーム性を持っていました。

この時期の権利モノはパンクが発生しやすく、通常ストロークでの消化が必要でした。

その後、権利モノは進化を続け、「権利発生後は右打ち消化でパンクしない」などのアイデアが加味され、1995年には三洋物産の「CRギンギラパラダイス」が登場し、権利モノの新たな時代を築いていきました。


「一発台」の登場とその発展

80年代の熱狂的なフィーバーブームが規制によって収束する中、1981年の「30秒開放・10ラウンド規制」と1984年の「10カウント規制」が導入され、ブームは沈静化の兆しを見せていました。

そのような状況下で、「ハネモノ」「権利モノ」といった新しいジャンルが、一部の熱心なファンには十分な刺激となり得なかったのです。

特に千葉県では地域に合わせた厳格な「千葉タイプへの規制」があり、これが影響してフィーバーマシンの人気は急落しました。

この背景から、フィーバーマシンの代わりとなる新たなプレイ体験を提供する存在として「一発台」が登場しました。

実際、「一発台」という言葉にはジャンルとしての指定はありませんでした。

この流れの先駆者である西陣製「エレックスサンダーバード」は1982年に発売され、元々は一発台として企画されたものではありませんでした。

この機種は、フィールドの左右に空いた穴が特徴で、そこに玉が飛び込むとチューリップが開放され、通常では入賞が難しいチャッカーへの新たな経路が開かれ、入賞が容易になり、出玉が増えていくゲーム性を提供しました。

ただし、再度の入賞でチューリップが閉じてパンクとなりました。

当初はパンクしやすい機種として設置されていましたが、フィーバー規制の影響で後に千葉県を中心に「非常に入賞しにくいが、一度入賞するとパンクしにくい」というような釘調整が施され人気が再燃しました。

その後、1982年から1983年にかけて、マルホン製「パラレル」「センターフェース」「アラジン」、平和製「エンゼル」、京楽製「イーグルレント」など、さまざまなメーカーから様々な機種が登場しました。

そしてこれらは、通常の釘の設定を変更して「一発台」としての性格を帯び、連続的な勝利のスリルで観客を引き込んでいきました。

1985年の国家公安委員会規則の後も、「第一種」から「第三種」に該当しない「その他」の機種として、一発台は数多く登場していました。

もちろん、標準の設定でプレイされれば「一般の台」、いわゆる「平台」であり、検定も一般の台として許可されていましたが、釘の微調整によって「一発台」としての刺激的なプレイが生まれ変わりました。

そして1986年、三共が発売した「スーパーコンビ」は、勝利後の三つ穴クレーンでボールを振り分け、それにより「奥の2つの穴なら賞球13個、手前なら大当たりで絶え間なく出玉が続く」という興奮を生み出し、大ヒットへとつながりました。

こうして、フィーバーマシンの規制後、ゲーム市場は「ハネモノ」「権利モノ」に加えて、刺激的でエキサイティングな「一発台」というジャンルを確立し、再び賑わいを見せることとなりました。


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パチンコの歴史③ 電動式遊技機&フィーバー機 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A2-%E9%9B%BB%E5%8B%95%E5%BC%8F%E9%81%8A%E6%8A%80%E6%A9%9F%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E6%A9%9F/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A2-%E9%9B%BB%E5%8B%95%E5%BC%8F%E9%81%8A%E6%8A%80%E6%A9%9F%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E6%A9%9F/#respond Tue, 19 Mar 2024 12:00:32 +0000 https://chance-up.jp/?p=491 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第3回は「電動式遊技機&フィーバー機」です。 目次 高度経済成長期へ 1959年に風俗営業取締法が改正され、「ぱちんこ」は […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第3回は「電動式遊技機&フィーバー機」です。

目次

高度経済成長期へ

1959年に風俗営業取締法が改正され、「ぱちんこ」は風俗営業法7号営業として位置づけられ、1964年には風俗営業取締法が再び一部改正されました。

この改正で、「ぱちんこ」の許可期間が3ヶ月に延長され、遊技料金や景品単価にも変更がありました。

これにより、パチンコは「大人の遊び」として定着しました。

1966年には遊技機基準の緩和があり、36種類の役物使用が正式に認可され、全国的にパチンコが普及し、「第2次黄金時代」が訪れました。

この時期は高度経済成長期に位置しており、社会全体が発展していく中で、パチンコも進化を遂げていきました。

まず、遊技機の外観が大きく変化しました。

1964年に登場した「ユニパック」は、木製の遊技台に革新をもたらし、プラスチックでできた台枠と本体を分離可能にしました。

この進化は、「救世号」などを経て、「セル替え」の可能となり、今なお続く交換システムの基盤を築きました。

外観だけでなく、射幸性の向上も重要な変化でした。

1969年には遊技機の新基準が定められ、手動式での発射速度や賞品球の出玉に制限が設けられました。

この基準により、「上皿搭載」が標準となり、遊技性が向上。

また、賞球の制約も緩和され、一分間に100発の発射が可能となり、初級者から上級者まで広く楽しめるようになりました。

高度経済成長期の真っただ中、パチンコの射幸性も世相に合わせて上昇。

景品上限額や遊技料金が引き上げられ、1973年には景品上限額が1,000円まで拡大されました。

更に革命的な変化が訪れ、電動式遊技機が登場しました。


電動式遊技機の誕生と普及

1972年、警察庁が条件つきながらも「一分間に100発、賞球15個」の範囲内で電動式遊技機を認可しました。

これは以前登場した「モーターパチンコ」が一分間に200発もの発射を行うなどの理由から、新しい電動式遊技機が開発される契機となりました。

「モーターパチンコ」はスイッチを入れると自動的に玉が発射され、遊技者の介入が難しいものでした。

しかし、新たに登場した電動式遊技機は、ハンドルを回すことで発射され、その角度によって打ち出しストロークも変化する構造でした。

この設計により、手打ち台と同様に遊技者が技術介入できる余地が残りました。

現在ではハンドル固定が一般的ですが、この時の経緯から認可されたものと言えます。

当初は上級者や熟練者から電動式遊技機への拒否反応があり、手打ちと電動の双方が併設され、一定の区別がなされていました。

過渡期には、手打ちと電動ハンドルが付いた遊技機も存在しました。

しかし、電動式の利便性や初心者向けの使いやすさから、次第に電動式遊技機が普及していきました。


インベーダーゲームの襲来

1975年、アースマラソンで有名な「間寛平」の歌う「ひらけ!チューリップ」が100万枚を超える大ヒットとなり、これはまさにパチンコが第2期黄金時代を極めた出来事でした。

この成功は、パチンコが社会に定着していたことを示す好例と言えました。

同時期には、ボウリングブームが終焉し、郊外に次々とパチンコ店が出店。

この年、ホールの軒数は10,000店舗を超え、パチンコファンの人口も3,000万人に達し、ブームの頂点を迎えていました。

しかし、この黄金時代に重大な転機が訪れました。 1978年、タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが空前の大ブームを巻き起こすことになります。


インベーダーの影響とフィーバーの台頭

パチンコの第2次黄金時代は1975年に始まり、ホールの軒数が10,000店舗を超え、パチンコファンの人口も増加し、市場規模も拡大していました。

1977年には景品の最高限度額が引き上げられ、パチンコメーカーも画期的な新作を次々と発表していました。

テレビを搭載した「テレパチマン」や「逆転パチンコ」など、斬新なアイデアが次々と登場し、業界は繁栄の一途をたどっていました。

しかし、1978年にはパチンコ業界にとって大きな打撃が訪れます。

タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが大ヒット。

インベーダーブームが巻き起こり、ゲームセンターや喫茶店に置かれ、人々の間で熱狂的な支持を受けました。

このブームの影響で、パチンコ業界は1979年にホールの軒数が減少し、1万軒を割り込む事態となりました。

パチンコファンが新たなエンターテインメントであるインベーダーゲームに流れ、従来の物理的な動きだけでは魅力が足りなくなったのが原因でした。

パチンコメーカーもこの状況に対応すべく、電気的な動きや音を模索し、新しいゲーム性を取り入れる努力を重ねました。

しかし、パチンコの人気はなかなか戻らず、窮地に立たされた業界にとって救世主となったのが「フィーバー」の登場でした。


フィーバー機の誕生と社会への影響

1977年に登場した三共「ブレンド赤坂」は、中央のドラムを搭載し、スタートチャッカーに入るとドラムが回転、ストップボタンで組み合わせによりチューリップが開放されるゲーム性を持っていました。

しかし、この台は目押しによる狙い撃ちが可能で、ホールの収益減少につながりました。

ここから、「故障時のように玉が出っぱなしになる」新しい台のアイデアが生まれ、これが「フィーバー」の原型となりました。

1980年12月21日、新潟県のエース電研直営店が一気に三共「フィーバー」を123台も設置。

これによりホールに多額の収益がもたらされ、全国的に「フィーバー」への注文が殺到し、大ヒット機種となりました。

しかし、その過激なゲーム性から社会問題となり、様々な事件が発生しました。

茨城県での大当たりでの死亡事件や金銭トラブルなどが報告され、警察庁は1981年に規制を通達しました。

1982年には全遊協が規制に従い、「フィーバー機」の新要件機への切り替えと、ホールの「フィーバー」設置台数を規制する自主規制を実施。

しかし、問題は改善されず、1984年には再び警察庁が「フィーバー」機に対する追加の規制を通達。

大入賞口の開放時間や入賞数の制限が設けられ、パチンコ業界は再び厳しい状況に直面しました。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第4回は「ハネモノ&権利モノ誕生」をお伝えします。

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パチンコの歴史② チューリップと新遊技機 https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A1-%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%A8%E6%96%B0%E9%81%8A%E6%8A%80%E6%A9%9F/ https://chance-up.jp/%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A1-%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%A8%E6%96%B0%E9%81%8A%E6%8A%80%E6%A9%9F/#respond Mon, 04 Mar 2024 10:55:07 +0000 https://chance-up.jp/?p=489 本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第2回は「チューリップと新遊技機」です。 目次 「チューリップ」誕生の舞台裏と新たな展開 1955年、「第1期黄金時代」の […]

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第2回は「チューリップと新遊技機」です。

目次

「チューリップ」誕生の舞台裏と新たな展開

1955年、「第1期黄金時代」の終焉により、パチンコ業界は急速な低迷期に入りました。

ホール数は急激に減少し、業界の未来は不透明でした。

しかし、1957年に西陣が開発した「役物」が登場し、業界に新たな息吹をもたらしました。

この役物は視覚的な楽しさを提供し、ホール数の回復を促しました。

同年には風営法が改正され、「ぱちんこ」が正式な風営法7号営業となり、業界は再び動き出しました。

1959年、西陣が「ジンミット」の進化系として「あたりだよおとっつあん」を発売し、大成功を収めます。

この機種は役物に人形のようなものを配置し、玉が役物に飛び込むたびに人形が飛び出す斬新な仕組みで、後の「ハネモノといえば西陣」と言われる時代の幕開けとなりました。

同じ年、大阪で部品メーカーを営んでいた鳴尾辰三が、後の救世主となる「チューリップ」の原型を発明しました。

この発明は、一度入賞すると小さなハネが一定時間開きっぱなしになり、再度の入賞が容易になるという画期的な仕組みでした。

鳴尾氏はこのアイデアを成田製作所に売却しましたが、彼の名前はあまり取り上げられませんでした。

成田製作所は鳴尾氏の発明にさらなる改良を施し、「チューリップ」が1960年に誕生し、特許を取得しました。

この革新的な役物の登場により、パチンコ業界は再び大きな躍進を果たし、「第2次黄金時代」への道を切り拓くこととなりました。


第2次黄金時代の幕開けと繁栄

1960年、「チューリップ」の革新的な役物が誕生し、パチンコ業界は新たな展開を迎えました。

同年、「日本遊技機工業協同組合(日工組)」と「全国遊技機商業組合連合会(全商連)」が設立され、これらの組合は現在も活動しています。

日工組は設立時に60社が加盟し、1963年には54社で「日本遊技機工業組合」に改組され、全商連も1989年に「全国遊技機商業協同組合連合会(全商協)」に改組されました。

1960年、チューリップの登場に合わせて「東京台東体育館」で初のパチンコ機展示会が開催され、その後も各地で展示会が続きました。

1964年には「西日本遊技機展示会」が開催され、この展示会を通じてチューリップの人気が特に西日本で拡大しました。

風俗営業等取締法も改正され、パチンコは「大人の遊び」となりました。

ホール数は1万店を回復し、遊技機台数も125万台まで増加しました。

1966年、遊技機基準の緩和により36種類の役物が正式に認可され、チューリップは全国的に普及。

製造・販売数が年間400~500万個に達し、爆発的な人気を博しました。 同年7月に開催された「’66東京パチンコショー」も成功裏に終了し、パチンコ業界は空前のブームを迎え、第2次黄金時代が頂点に達しました。


新ジャンル遊技機の革新

チューリップの誕生と同時に、画期的な新ジャンル遊技機も登場していました。

1958年、藤商事が「じゃん球」の製造を開始し、全国にリースで販売される業界初の試みが始まりました。

このゲームは、コイン1枚を投入することで14発の玉が打ち出され、封印式の上皿に入賞すると成立した麻雀役に応じてコインが払い出される仕組みを持っていました。

初期の風貌はメダル式パチンコに似ていましたが、特有のゲーム性から一部で人気を博し、その後の展開に影響を与えました。

このゲーム性は、後に1972年に認可される「アレンジボール」の基盤となりました。

なお、「じゃん球」は近年においても発売されており、2003年までは3枚200円のコインを投入してプレイし、14球の打ち出しを1ゲームとする仕組みでした。

これは「じゃん球」「アレンジボール」に通じる内容で、役の成立でコインが払い出される仕組みが継承されていました。

2004年以降の規則改正でコインは1枚20円に変更され、パチスロと同じコインが使用されるようになりました。

2007年にサミーから発売された「ドリームジャンベガス」では、コイン3枚を投入して14枚の配牌が液晶に表示され、不要牌を捨てながら11球の打ち出しを行い、役が成立すればコインが獲得できる新しい要素が導入されました。

サミーからはその後も新しい「じゃん球」シリーズが続々と登場しています。

1964年には公安委員会によって正式に認定された「オリンピアマシン」も登場しました。

最初の認可機はセガ社製の「オリンピアスター」で、1メダル1ライン機のボーナスがないという仕様でした。

この機種は「ストップボタン」を搭載し、「技術介入性」があると判断されたために認可が得られた大きな理由となりました。

ただし、都道府県により許可・不許可の差がありましたが、目押しで図柄をそろえることができるゲーム性から一部で人気を博しました。

この機種は後に進化し、現在の「回胴式遊技機」であるパチスロへと発展していく重要な一歩となりました。

この時代に生まれた多くの発明品が、現在のパチンコ産業を支える基盤となっています。


パチスロ黎明期の困難な道のり

1964年、セガ社製の「オリンピアスター」が公安委員会によって初めての認可機として登場し、これが回胴式遊技機のスロットマシンとしての扉を開きました。

しかし、この認可機の登場までには様々な困難がありました。

終戦直後の1940年後半に米軍の支配下にあった沖縄で初めて導入されたアメリカ製のスロットマシンが、後に本土にも広がっていきました。

しかし、本土では日本の営業許可がないため不正機とされ、警察庁は技術介入性が不足し賭博機に適さないとの見解を示しました。

こうした状況に諦めず、技術介入性を追求する研究が進展し、10年後に公安委員会が「オリンピアスター」を認可することとなりました。

最大の理由は「ストップボタン」の搭載により技術介入性が認められたことでした。

そして、この「オリンピアスター」には今日のようなボーナスゲームがなく、小役を揃えるのみのゲーム性でしたが、後の「ニューオリンピア」にはボーナスゲームが搭載され、以後、ボーナスゲームが主流となりました。

ただし、「オリンピアマシン」は目押しが上手ければ高確率で図柄を揃えることができ、一般にはあまり普及しませんでした。


ステッピングモーター登場による進化

「オリンピアマシン」の普及には至らなかったが、1977年にはマックス商事が3メダル5ライン機の「ジェミニ」を発表し、パチスロの基本を確立しました。

この機種では目押しによる図柄揃えをランダムにズラす物理的な機能が導入され、ゲーム性が向上しました。

同時期に「アメリカンパチンコ」への名称変更もあり、現在のパチスロに近づいていきました。

そして、1980年にはフィーバーブームの中で革命的な機種が登場。

ユニバーサル製「アメリカーナ」や尚球社製「パチスロパルサー」が「ステッピングモーター」を採用し、現代のパチスロのスタイルが確立されました。

このステッピングモーターにより、フラグ抽選を経てリールを停止させるスタイルが一般化し、パチスロは急速に普及していきました。

また、筐体の変化により「パチンコ型スロットマシン」が「パチスロ」として一般的な呼称となり、九州での本格導入を皮切りに全国的な認知度を高めました。

1985年にはユニバーサル社がラスベガスに初めてステッピングモーターを採用したリールマシンを投入し、この技術が急速に広まりました。

アメリカ本土発のスロットマシンが日本で進化し、日本の技術が世界にも影響を与える瞬間となりました。


0号機から1号機への転換

1980年に設立された「日本電動式遊技機工業協同組合(日電協)」は、パチスロ黎明期における中心的存在となりました。

加盟企業数は10社で、初代理事長には高砂電器産業の濱野準一氏が就任しました。

日電協は「オリンピアマシンショー」などの合同展示会を通じて、パチスロ市場の固定化を進めました。

1981年には全国のパチスロ設置台数が2万4千台に達し、1983年には9万7千台と市場を拡大していきました。

1985年には「新風営法」の施行に伴い、「パチスロ」が法的に「回胴式遊技機」として認識され、同時に「財団法人 保安電子通信技術協会(保通協)」による型式試験がスタートし、俗に言う「1号機」時代が始まりました。

「0号機」は「1号機」以前の機種を指す造語です。

保通協の型式試験を通過した「1号機」第1弾として登場したのは、「ワンダーセブン」や「アメリカーナXX」など4機種でした。

これらの機種では、ボーナスフラグがメダルの差枚数が一定に達すると成立する吸い込み方式が採用され、天井やビッグボーナスの仕組みも確立されました。

ビッグボーナス時の打ち方も独自で、連チャン時には短く、ハマリ時には長く選択される仕組みでした。

その後、1号機の普及に伴い攻略法や不正改造が問題となり、日電協は1986年に全国ホールの健全化を目指し基盤封印作業を開始しました。

しかし、これでも不正改造はなくならず、危機感を持った日電協は「1.5号機」の導入に踏み切り、以降のパチスロの歴史が動き始めました。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第3回は「電動式遊技機&フィーバー機」をお伝えします。

#歴史

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本コラムでは、パチンコ業界での転職に役立つ知識としてパチンコ・パチスロの歴史についてお伝えします。第1回は「誕生から役物の登場まで」です。

目次

パチンコの起源は?

パチンコ機の起源は、西洋のマシンである「コリントゲーム」や「ウォールマシン」にさかのぼります。

コリントゲームはピンボールの原型で、ウォールマシンは壁に取り付けて遊ぶもので、「パチンコ」はこれらのいいとこ取りから生まれたと言われています。

1900年にウォールマシンがヨーロッパで誕生し、1920年にコリントゲームなどがアメリカから日本に輸入されました。

日本では、1922年には既に「パチパチ」「パッチン」と呼ばれたパチンコの原型が関西で露天営業を始め、1924年には宝塚新温泉にヨーロッパのウォールマシンが設置されました。

1930年には名古屋で自動遊技機の営業許可が出され、名古屋が「パチンコ発祥の地」となりました。

1931年からは全国的に「一銭パチンコ」が普及し、投入口に一銭銅貨を入れて玉を出し、入賞すると一銭や二銭の現金が得られる仕組みで、大人たちも熱狂しました。

1932年頃からは「パチンコ」という名称が定着し、関西と関東で異なる呼び名が合わさって「パチンコ」と呼ばれるようになりました。


ホールの原点と規制の始まり

1932年、パチンコが全国的なブームになり、一銭パチンコには規制が導入されました。

一銭銅貨に「皇室の御紋」が入っていたことから、これを遊技に使用することが禁止され、全国的に一銭パチンコは姿を消していきました。

しかし、この規制に終わりがありませんでした。

1934年、同じ仕組みのメダルを使用する「メダル式パチンコ」が認可を取得し、1935年には全国に広まり、パチンコは復活を遂げました。

遊技場では、人気獲得のために客が獲得したメダルをお菓子と交換する「景品交換」が始まりました。

1936年ごろ、名古屋の藤井文一がメダルではなく直接玉を入れる「鋼球式(玉式)」を考案し、ブームは拡大を続けました。

しかし、1937年に日中戦争が勃発し、戦時特別措置令で新規営業が禁止され、1940年には遊技機製造禁止令が出されました。

1941年に太平洋戦争が勃発し、翌1942年には戦時対策により、企業整備令とともにパチンコは全面禁止になりました。

この時期、パチンコは「非国民的遊技」とされ、戦前のパチンコ文化は終焉を迎えました。


戦後パチンコ産業と正村ゲージ

終戦後の1945年、進駐軍向けの遊技場が再開され、メダル一個が五銭で遊技できる状況が生まれました。

しかし、本格的な復興は遠く、供給過多となった戦争の遺物である7/16インチのベアリング球がパチンコの遊技球として流用されました。

1946年、正村竹一氏が名古屋市西区で20台の小さなパチンコ店を開店し、大繁盛となりました。

正村竹一氏はもともとガラス商を営んでおり、パチンコとは無縁でしたが、戦前に鋼球式を製品化した藤井文一氏によってパチンコに興味を持ちました。

正村氏の店は大成功を収め、増台の必要性から自ら遊技機の製造を始めました。

彼は通常の釘の配置が単調なゲーム性を生むと考え、独自のゲージである「正村ゲージ」を開発し、1948年に登場させました。

さらに、従兄弟の長崎一男氏が「オール物」を開発し、同じく正村ゲージは人気爆発となりました。

正村竹一氏は、現在の遊技機の基礎を築いたことから「パチンコの神様」と呼ばれています。


パチンコの第1次黄金時代

1948年、競馬や競輪が合法化される中、パチンコは「風俗営業等取締法」によって正式に「遊技」と位置づけられました。

同法に基づく都道府県の許可営業となり、貸玉料金も1個1円に統一されました。

1949年には一部が改正され、貸玉料金は1個2円に、景品上限額は100円までと定められました。

これを契機に、パチンコは過去にない大ブームを迎えました。

1950年には「オール20」と呼ばれる正村ゲージの機械が登場し、ホール数は8,400店舗に倍増しました。

1951年には警視庁が「パチンコの遊び方」を発表し、18歳未満のパチンコが禁止されつつも、ホール数は約12,000店に増加し、全国遊技業組合連合会(全遊連)が発足しました。

1952年に登場した「オール20連発式」は大ヒットし、ホール数は一気に42,100店舗まで増加。

翌1953年には「循環式1号機」と呼ばれる「上皿付き高速連射機」が登場し、ピーク時には45,317店舗に達し、まさに第1次黄金時代が到来しました。

しかし、この黄金時代は長続きせず、後に次なる時代へと移り変わることとなります。


連発式パチンコの規制

1952年からパチンコ産業は第1次黄金時代を迎え、ホール数はピークで45,000店舗に達しました。

しかし、このブームは連発式パチンコの規制により急速に終焉を迎えました。

1954年に風俗営業取締法が改正され、都道府県の公安委員会が連発式パチンコを禁止する通達を行いました。

その後、1955年3月には「連発式パチンコ」が、同年10月には「オール20」も禁止されることとなりました。

規制の背後には射幸性があるとされ、当時の貸玉料金が1個2円、景品上限額が100円であったため、「オール20」は一回の払い出しで最大40円となりました。

この金額が高い射幸性を生んでいたため、規制が行われました。

特に「連発式」は左手で穴に1個1個を入れてからハンドルを弾いて打ち出す方式から、一度に一定量の玉を込めても、打ち出すごとに一発一発が補填される方式に進化していました。

この進化は「デンデン虫」と呼ばれる機械のヒットをきっかけにさらに改良が加えられ、左手で玉を穴に入れなくても多くの玉を一度に置くことができる「上皿付き」が登場し、賞球の払い出しも上皿に出てくる「循環式」も登場しました。

循環式の1号機と呼ばれる「上皿付き高速連射機」は一分間に160~180発もの発射が可能で、非常に高い射幸性を持っていました。

この高い射幸性が、「モーターパチンコ」が問題視されるきっかけとなり、モーターパチンコだけでなく連発式自体も規制される結果となりました。

連発式の一斉規制は、全国警察本部長会議で「単発式を除くぱちんこ機械は遊技者の射幸性を著しくそそるおそれがあり、遊技機として不適切」との採択に繋がりました。

この規制が実施される一方で、すでにパチンコによる依存症や賭博による生活破綻が問題となっていました。

投資金額が高く、景品を取っても次に打つ資金がなくなるため、店舗の外で景品を買い取っていた「バイニン」も存在していました。

こういった状況を受けて、1955年に各公安委員会が「連発式パチンコ」が、10月には「オール20」も禁止されることとなり、第1期黄金時代は終焉を迎えました。


連発式パチンコの規制内容

1955年3月以降、行政は各公安委員会が認めるぱちんこ機の基準を設け、「一式」「二式」「三式」の3つのタイプのみが許可されることとなりました。

それぞれの内容は以下の通りです。

1.一式(手動式):

・上皿がなく、「手で一個ずつ玉を投入して発射するもの」。

・発射に時間がかかり、射幸性が抑えられるメリットがありますが、遊技者の労力が大きい。

2.二式(上皿付き・循環式):

・「上皿付き・循環式」が認められる。

・「発射された玉がアウトかセーフかを確認した後でないと次の玉を発射できない仕組みも有するもの」。

3.三式(上皿付き・循環式):

・「上皿付き・循環式」が認められる。

・「一分間に30発以内の遊技球しか発射することができないもの」。

これらの規制は、射幸性を抑えるための条件を設けており、特に「三式」では一分間に発射できる遊技球の数が制限されています。

この規制により、ホールの売り上げは大幅に減少し、ホール数も急激に減少しました。

最盛期の45,000店舗から1955年には12,300店舗に激減し、その後も転廃業が相次ぎ、1957年には8,400店舗まで減少。

同時に多くのパチンコメーカーも倒産や廃業に追い込まれ、これが「パチンコ冬の時代」の到来を象徴しています。


パチンコを復活させる秀逸アイデア「役物」の登場

パチンコメーカーは冷え込む業界に打って出て、1957年に「西陣」が発明・開発した「役物」が業界に大きな変革をもたらしました。

これにより、冷え切ったパチンコ産業に一筋の光が差し込むこととなりました。

1.ジンミットとセンター役物:

・1957年に登場した「ジンミット」は、パチンコ台の盤面中央部分に初めて「役物」を搭載した機種でした。

・「センター役物」と呼ばれる役物は、入賞した玉が内部を通って他の入賞口上部に導かれ、入賞を容易にする仕組みを持っていました。

・盤面の最も目立つ場所に位置する役物であり、「とにかく役物に入れば…」というゲーム性が加わり、大きな評判を呼び起こしました。

・「ジンミット」の機種名は、「神武景気」に沸いていた当時の好景気にあやかり、「神武景気をミットで受け止めたい」という意味が込められていました。

2.コミックゲート:

・同じ年、「平和」が「コミックゲート」という機種を発売。

これは「センター役物」に風車を搭載し、動く仕組みを追加した改良版でした。

・各社から続々と「役物搭載機種」が登場し、パチンコ人気は再び高まりました。

この「役物」の登場により、ホール件数は1957年の8,400店舗が底を打ち、翌1958年からは増加に転じ、これが後の「第2次黄金時代」への道を開くことになりました。


パチンコ・パチスロの歴史を知ることは、パチンコ業界での転職知識として役立つだけでなく、転職後の業務にもきっと役立つはずです。つづく第2回は「チューリップと新遊技機」をお伝えします。

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